第六章 真夏の夜の夢

 ほとんどの家には風呂が無かったので、みんな近所の公衆浴場へ行っていた。ボクの家にもお風呂は無かったから、北馬場通りの天神湯か、猟師町の海水湯(しおゆ)とか、南品川の煉瓦湯に行っていた。だけど、毎年お盆が近づいてくると、海水湯にだけは行きたくなかった。
 なぜかというと、海水湯に行くには大正橋を渡らなければならないからだ。大正橋は木製の太鼓橋で、形も面白くて好きな橋だったけれど、夏場の、それもお盆が近づく夜中には、どうしても通りたくない橋だった。
 街には街灯も少なくて、夜中ともなれば街から灯りがほとんど消えていたけれど、それでも月明かりをたよりに夜道を歩くことができた。
 ボクの家では、店が閉まってから店員たちと公衆浴場に行くのが常だったので、風呂屋にでかけるのはいつも夜の九時過ぎになった。
 そして8月15日の夜、久しぶりに海水湯にでかけることになったんだ。石鹸と手ぬぐいを片手に商店街を北に向かい、陣屋横町の角を右に曲がって、坂を下ると、その先に大正橋がある。けれど橋を渡る時、ボクは思わず目をつぶった。「カタンコトン♪」と軽快な音を立てながら橋を渡っていくと、急に音が止んだ。どうやら橋を渡りきったようだ。ホッとして思わず目を開けると、暗闇の中にぼんやりと人影が浮き出た。それは女の人だったが、青白い顔の半分が奇妙にただれていて、見るも恐ろしい姿だった。
「ひぇ~っ!」ボクは悲鳴を上げた。
「なんだイサオくん、怖いのか?」シゲオさんが笑った。
「だって、これ…」と言って、ボクが人影を指さした。
「はははっ、こりゃポスターじゃないか」
「そ、それはわかっているけど…」ボクは震えながら言った。「でも、やっぱり怖いよ」
「まあたしかに、夜中にこんなのを見たら怖いね」
 シゲオさんがポスターの方に目をやった。そこにはおどろおどろしい文字で「東海道四谷怪談」と書かれてあった。
 ボクの家がある商店街の並びに、「品川劇場」という映画館があった。玉晶堂のすぐ近くにあって、歩いて30秒とかからない。元は「品川座」という寄席だった、一階建ての小さな劇場だ。
 人々の娯楽といえば、もっぱら映画しかなかったので、ボクの家の近くにも映画館がたくさんあった。一番近いのが「品川劇場」で、次に近いのが北馬場駅そばの「娯楽館」。ちょっと遠くにあるのが仙台坂上の「昭栄館」だ。ゼームス坂の裏にも小さな映画館があったけれど、そこには一度も行かなかった。
 「品川劇場」では、主に東宝系の映画を上映していたけれど、夏のお盆シーズンになると、決まって怪談映画やホラー映画を上映するので、あちこちにそのポスターが貼られるのだ。
 ポスターが貼られる場所はいつも決まっていて、そのひとつが大正橋の畔の民家の壁だった。だから7月13日、品川宿のお盆の入りから8月16日の旧盆の終わりにかけて、ボクは夜遅くこの場所を通るのが怖かった。街灯もなく暗い夜道に、月の光に照らされてうっすらと浮かび上がるお岩さんの顔を見たら、誰だって肝をつぶすに決まっているじゃないか。

  

 だが、恐怖はまだ続いた。海水湯は道を挟んで寄木神社の真向かいにある。この寄木神社は、南の天王祭で海中渡御される御神輿を奉っている神社で、大和武尊が乗っていた船の板がこの場所に寄りついたことからこの名がついたそうだ。
 この寄木神社だけど、街中なのにうっそうとした木に囲まれていて、昼でもここだけ暗くて、なんだか妖怪でも潜んでいるかのようなんだ。夜になると灯がともされるけれど、灯が風に揺れる様子が鬼火のように不気味に見えて、ボクにはやはり怖い場所だった。
 さて、こうしていくつかの難関をくぐり抜けて海水湯にたどり着いたけれど、のれんをくぐって中に入るやいなやーー
「ひぇ~~っ!」ボクはまた悲鳴を上げた。
「イサオくん、どうしたんだ?」シゲオさんがのぞきこんだ。
「あ、あれ…」
 震える手でボクが指さす先には、大正橋の畔にあったのと同じポスターが貼ってあった。暗いところで見るのも怖いけれど、明るいところで見ると、お岩さんの顔が鮮明に見えて、なお怖い。血の赤が毒々しいし、ただれた顔もハッキリわかる。恨めしそうに僕を見つめる目もおどろおどろしくて、怖いったらありゃしない。
 さて、この「東海道四谷怪談」を上映する品川劇場だけど、夏の期間の真夜中だけ、海外の映画を上映する「深夜劇場」という特別なナイトショーがある。主に海外のB級SF映画を上映してくれるんだけど、そんな映画を観られる機会はめったになかった。
 ホントなら、深夜の劇場に子供は入れないけれど、大人と一緒なら、子供でも入ることができた。それに、ご近所ということもあって我が家には招待券が配られていたから、タダで観ることができたんだ。
 この日も、風呂屋に行ってから、シゲオさんと一緒に深夜劇場を観に行く予定だった。海水湯には行きたくないけれど、ボクは映画が観たかった。なにしろ今夜上映する映画には「禁断の惑星」に出ていたロビーというロボットも出演するのだ。ロビーはブリキのおもちゃも買ってもらうほど、お気に入りのキャラクターだったから、是非ともこの映画は観たい。その思いから、恐怖のポスターを我慢して海水湯に連れて行ってもらったのだった。
 さて、海水湯を出ての帰り道。大正橋にさしかかると、ボクは今度こそはポスターを見ないようにと、目をつぶった。もちろん、ポスターの貼ってある民家を避けるように歩いたんだけど、それがまずかった。反対側の壁に寄りすぎて、しこたま頭をぶつけてしまった。
「いたっ!」
「イサオくん、大丈夫かい?」シゲオさんが心配そうに声をかけた。
 思わず目を開くと、シゲオさんの肩越しにお岩さんの顔が覗いて、ボクはまたしても悲鳴を上げた。
「ひぇ~っ!」
 とにかくシゲオさんの手につかまって、なんとか陣屋横町の坂を上り、商店街にたどり着いた。
 しかし、まだ油断はできない。目的地の品川劇場の前にも、もしかしたら劇場内の廊下にも、お岩さんのポスターが貼ってあるに違いないのだ。
 そう思って、海水湯に行く時は、わざわざ劇場の反対側を見ながら歩いていたのだったけれど、余計な心配だった。
 なんと、東海道四谷怪談のポスターの上に、深夜劇場で上映する映画のポスターが貼ってあったのだ。
 ポスターにはロボットのロビーがでかでかと載っていて、「宇宙への冒険」というタイトルが赤い字で踊っていた。
 なんて、少年の興味をそそるタイトルだろう。ボクはしばらくポスターを見つめながら、想像を膨らませていた。
「イサオくん、入るよ」
 シゲオさんに促されて、劇場の中に入って行くと、幸いなことに廊下にはお岩さんのポスターはなかった。
 場内に入ると、深夜だというのに結構観客がいて、ほとんど満席状態だった。さすがロビーは人気があるなと思ったけれど、単に海外のSF映画が物珍しかっただけかもしれない。ともかく大勢の観客が固唾を飲んで見守る中で映画が始まった。
 だけど、スクリーンに映画が映し出されると同時に、ボクの期待は見事に打ち砕かれた。てっきり「禁断の惑星」と同じカラー作品かと思ったら、白黒作品だった。それに、もちろんロビーは登場するのだけれども、なかなか宇宙に旅立つ気配がない。しかも主人公が少年のせいか、「禁断の惑星」に出てきたような美女も出ないし、危険なシーンもない。そんなわけで、全然ハラハラもドキドキもしなかった。
 そんな時、ボクはいつも映画そっちのけで想像を膨らませて、自分なりの物語作りに夢中になった。せっかくロビーが出るのだから、さっさと宇宙に飛び立って異星人や宇宙の怪物と戦わなければおもしろくない。それも、ゾッとするような、得体の知れない怪物でなくては…と、そんな具合に、全く違うお話を勝手に作り上げることに夢中になった。
 だから、映画が終わった頃には、ボクは完全に自分の作った世界に入り込んで、ひとり興奮していた。
「イサオくん、どうだった?」
 シゲオさんが映画の感想をきいた。
「う、うん、おもしろかったよ」
 もちろん、上映した映画がおもしろかったわけではない。おもしろいのはボクが頭の中で勝手に作った空想の映画の方だ。
 なにしろ、その映画の方にはロビーのほかに、「宇宙水爆戦」のメタルーナ・ミュータントや、「禁断の惑星」のイドの怪物や、「地球防衛軍」のモゲラも出てくる。そしてもちろん、金髪の美女アン・フランシスも登場するのだから、おもしろくないはずがない。

   

 そんなわけで、ひとり妄想にふけながら映画館から出た。
 外に出ると、すでに夜中の12時をまわり、街の灯りはすべて消えて、月も地平線に沈んでいたけれど、満天の空に輝く星明かりのおかげで、薄暗い中でも道や建物の輪郭はハッキリとわかった。 この東京でも、夜遅くなると街から灯りがなくなり、街中真っ暗になった。そのおかげで、星がよく見えた。夜空には天の川が流れ、流星群や、運が良ければ人工衛星も見ることができた。
 夜空を見上げていると、今にも降ってきそうな夜空の星々が今夜は妙に近くに見えて、なんだか不気味だった。
 玉晶堂の前まで来て、ふいに朝日楼を見上げると、三階の暗い窓にボ~ッと白い人影が覗いていた。そう言えば今日は旧盆だから、ワラシの故郷ではお盆なんだ。きっとワラシのお母さんが、ワラシのところにやって来たのに違いない。
 そう思うと、映画のポスターであんなに怖かった幽霊なのに、なぜかこの時だけは、ホンモノを見ても少しも怖くなかった。

注)これは事実を元に脚色を加えた物語です。なるべく当時を再現するよう努めましたが、なにぶん昔のことですので記憶違いや思い込みもあるでしょうし、記憶も断片的ですので、時間や場所など事実と異なる点もあるかと思います。また、プライバシーを考慮して、登場人物や人名などはあえて変えてあります。
  【お台場少年うんちく集】

(14)作中に出てきた映画って、どんな映画?

「東海道四谷怪談」(1959)
 四代目鶴屋南北原作の怪談を忠実に、新東宝が中川信夫監督、天知茂主演で映画化した初カラー作品。フランシス・フォード・コッポラが「世界最高のオカルト映画」と評しているほどの、映画化された「四谷怪談」の最高傑作です。

「宇宙への冒険」(1957)
 「禁断の惑星」に登場したロボットのロビーが出ているのが取り柄の白黒空想科学映画です。公開当時はわかりませんが、「続・禁断の惑星」という副題がついて紹介される場合もあります。

「宇宙水爆戦」(1955)
 ゼーゴン星から誘星爆弾(最新のDVDでは隕石爆弾に変えられてしまいました)の攻撃を受けていたメタルーナ星人が、防御バリヤーの技術開発に従事させるため、地球の原子物理学者をさらって来るという、SF映画です。
 ちなみにメタルーナ・ミュータントとはメタルーナ星人が昆虫を突然変異させて作った昆虫人間です。むき出しの脳みそと巨大な目、両手のハサミが特徴で、BEM(ビッグ・アイド・モンスター)の代表的な怪物です。

「禁断の惑星」(1956)
 シェイクスピアの「テンペスト(嵐)」を原案にしたSF映画です。全編音楽、効果音をすべて電子音で貫き、円盤型宇宙船や異星文明、万能ロボット、イド(潜在意識)の怪物といった、視覚的にもアイデア的にもセンス・オブ・ワンダーにあふれた、SF映画の偉大な金字塔で、その後のSF映画やアニメに多大な影響を与えました。
 ちなみにロボットのロビーをデザインしたのは日系アメリカ人のロバート・キノシタで、「宇宙家族ロビンソン」のフライデーも彼がデザインしたものです。

「地球防衛軍」(1957)
 かつて火星と木星の間にあった惑星ミステロイドの異星人ミステリアンは宇宙空間にある母船から密かに空飛ぶ円盤を地球へ飛ばし、巨大ロボット・モゲラを使って富士山麓に巨大ドームを作り上げました。そして、突如姿を現すと、地球人に対して半径120㎞の土地と、繁殖に必要な女性たちを要求したのです。
 これに怒った地球人は徹底抗戦の構えを見せますが、圧倒的な科学力の差に、成すすべもありません。そこで全世界が結束して地球防衛軍を組織し、科学を結集させて超兵器を作り、ミステリアンに対抗します。勝つのは地球人か、ミステリアンか?いや、科学です。
 とにかく、出てくる超兵器が凄い、日本が世界に誇る特撮映画の金字塔です。
 どれだけ凄いかというと、全長200メートルもある空中戦艦α号、β号に、中央から電子砲を発射できる直径200メートルのパラボラ式反射鏡マーカライトファープ(正式名マーカライト・フライング・アタック・ヒート・リジェクター)というくらいです。しかし、さらに凄いのが、この巨大なマーカライトファープをそのまま敵陣まで輸送する全長1㎞の超巨大ロケット、マーカライトジャイロです。マーカライトファープを格納している部分は直径200メートル以上ある計算になりますから、ホント、凄いですね。

(15)品川劇場って、どんな劇場?

 北品川商店街にあった平屋の小さな劇場で、元は「品川座」という寄席でした。上映するのはもっぱら東宝系でしたが、三番館のため、新東宝など他の配給会社の映画も含めて、もっぱら二本立てや三本立て興行をしていました。
 三番館というのは新作映画を公開する封切り館から1~2週間遅れで公開する二番館よりもさらに遅く(1か月~数年後?)公開する劇場で、封切り館や二番館で使用した中古フイルムを使って、一日に複数本の映画を上映していました。
 なぜ複数本映画を上映するかというと、中古フイルムを近所にある他の三番館と巻ごとに持ち回りで上映するためで、フイルムの到着が遅れて、上映が中断することもしばしばあり、その模様は「ニュー・シネマ・パラダイス」でも再現されています。
 ちなみに、「深夜劇場」では「原子怪獣現る」や「黒い蠍」などの傑作怪獣映画も上映していて、子供だけでなく大人たちも皆興奮して観たものでした。

(16)アン・フランシスって、だれ?

 「禁断の惑星」でヒロインを演じていた、昭和30年代を代表する全てのSF少年憧れの女優です。「ローハイド」や「ミステリー・ゾーン」「刑事コロンボ」など数多くの海外ドラマにゲスト出演し、海外ドラマ「ハニーにおまかせ」では主人公ハニー・ウエストを演じていました。なお、「ミステリー・ゾーン」と「刑事コロンボ」にはロビーもゲスト出演しています。
 ちなみに、「ワンス・アポン・ナ・タイム・イン・ハリウッド」のブラッド・ピッド演じるスタントマンのトレーラーハウスにもポスターが貼ってありました。