第四章 恐怖の実験

「じゃあ化学部を作ろうよ」
 そう言って、クラさんが笑った。
 来年から学校で部活動が始まることになった。それまでボクらは、放課後になるとすぐに下校して、家の周りで遊ぶだけの毎日だった。下町の家にはテレビもほとんどないし、ニュースだってラジオや新聞で知るくらいだったから、ホントのところ、学校が終わると、ボクらはヒマを持て余していたんだ。
 もっとも、ボクの家は時計屋をやっていたくらいだから、ほかのみんなよりはちょっとだけ経済的な余裕があった。それで、絵画教室やお習字や音楽教室や勉強塾へと毎日通わされていたんだ。けれど、それでも空いた時間には外で自由に遊ぶことができた。
 ところが部活動が始まると、ボクらは放課後からの数時間、校内に留まれるようになるんだ。先生の負担は大きくなるけれど、これは親にとっても、子供にとっても好都合だった。
 しかし、台場小学校はできたばかりで、ボクたちが第一期生だったから、学校にとっても部活動は初めての試みだったんだ。そこで、部活動が始まる一年前にどんな部活動がしたいか、生徒たちから、やりたい部活動を募って、試験的に始めてみることになったというわけだ。
 すると、クラさんが勇んで手を挙げた。
「化学部をやりたいです」

 

「科学って、なにをやりたいんだね?」先生が興味深そうにたずねた。
「いえ、化学ですよ」クラさんが頭を振った。「理科室で実験をしたいんです」
 それを聞いて、クラさんらしいなとボクは思った。
 クラさんは、本名を「倉本一雄」というんだけど、大きな黒縁めがねをかけたその姿は、まさしく小さな博士か発明王のように見えた。
 いつも、見たことのない科学記事の切り抜きを集めては、ひとり読みふけているような、すごい科学マニアなんだ。彼の家に遊びに行った時なんか、部屋に何かの部品や電池がたくさん転がっていて、足の踏み場もなかったくらいだからね。とにかく好奇心旺盛で、思いつくと、なんでも実験したがるんだ。ある時なんか、オシッコをフライパンで煮たらどうなるかっていう実験をして、ボクらをあきれさせたこともあったっけ。
 そんなクラさんの性格を察してか、先生が渋っていると、ホリさんが手を挙げた。ホリさんは本名を「堀口国夫」っていって、両親が学校の先生をしているんだけど、とにかく何でも知っていて、まるで歩く百科事典みたいなんだ。それに彼は、小学生なのに先生みたいにいつも落ち着いていて、先生からの信認も厚く、まるで生徒の鑑のような子なんだ。
「ぼくもやってみたいです」
 ホリさんがそう言うならば、先生も反対できない。
「そうか、君が言うならいいだろう」
 先生の許可があっさり降りた。それで…
「じゃあ、ぼくも入るよ」
 ふたりを追うように、ボクも手を挙げたんだ。
 こうして、ボクたち三人だけで「化学部」が発足した。もちろん先生の監視の元という条件でだけど、おかげで放課後理科室を自由に使わせてもらえることになったんだ。
 でも、何を実験するつもりだろうか?二人の後についていっただけのボクにはまったく見当もつかなかった。
 そして、最初の部活動の日がやって来た。ボクとホリさんが理科室で待っていると、少し遅れて、クラさんが電池と電線と小さな金属の板を組み合わせた、変な装置を持って現れた。顔を見ると、鼻息も荒く、やる気満々な様子だ。
「で、今日は何を実験するつもりなの?」
 ボクが尋ねると、鞄からノートを取りだしてクラさんが言った。
「今日は霧を作る実験をしようと思うんだ」
「へぇ、霧かい?」ボクは素っ頓狂な声をあげた。
 化学部最初の実験だから、なにかすごい実験をするんだろうと思って期待していたのに、すっかり拍子抜けした。
「霧と言っても、普通の霧じゃないからね」クラさんがノートを開きながら言った。「詳しいことはここに書いてあるとおりさ」
 ノートを見ると、何やらびっしりと書き込んであった。けれど、いくら見ても、ボクには何がなんだかよくわからない。
 すると、クラさんがニヤリと笑って、ノートの内容を説明し始めた。
「まあ簡単に言えば、水を電気分解して霧を作るんだ。ほら、この図のように、水で満たしたビーカーに電極を入れて、電気を流すのさ」
「電気分解かい?」
 ボクには電気分解の意味がわからなかったけれど、電気を使うことだけはわかった。それに、電気には何か魔法の力があるような気がしていたから、とても魅力的な実験のように聞こえた。
 でも、さすが物知りのホリさんはわかったようだ。
「ふん、ノートにびっしり書いてあるわりに、やることは簡単じゃないか」ホリさんが鼻を鳴らして言った。
 すると、黒縁のめがねの奥でクラさんの目がキラリと光った。
「でも、ちょっと危険なところもあるんだよ」
「き、危険なところって、どこがだい?」
 いつも冷静なホリさんが、早口でたずねた。
「それは…たぶんだいじょうぶさ。ホント、だいじょうぶだから…」
 なんか、奥歯に物が挟まったようなクラさんの話しぶりが気になったけれど、先生がいっしょに見てくれるのだから安心だろう。
 それで、それ以上クラさんを問いつめるのはやめたんだ。
 でも、先生がなかなかやって来ない。
 どうしたのか気になったけれど、とにかく準備だけはしておこうということになって、みんなで理科室の奥にある倉庫にむかった。
 この倉庫は「理科準備室」とも言って、実験器具のほか、いろいろな薬品が置かれているけれど、中には危険な薬品もあるので、普段は入り口の扉に鍵がかかっていた。
 でも、今日は化学部の実験があるせいか、鍵はかかっていなかった。
 そういえば、先生が「理科室を自由に使っていい」と言っていたっけ。(じゃあ、倉庫の薬品も自由に使っていいんだ)
 そう思ったボクたちは、まようことなく倉庫の中に入っていった。
 倉庫の中には初めて入ったけれど、薬品の臭いがプンプンして、なんだか気分が悪くなりそうだった。それに、棚には薬品や器具のほかに、なにかの標本も置いてあって、なんだか知らないけれど、すごく不気味な形をしているんだ。それで、ボクは一刻も早くここから出たかった。
「おっ、これだ。これだ」
 奥の棚に置いてあった薬ビンの列から、クラさんがひとつのビンを取り出した。
「うわっ、硫酸じゃないか!」
 ガラスビンのラベルを見て、ホリさんが声をうわずらせた。
「危ないんじゃない?」
 ボクも声を震わせた。
「だいじょうぶだよ」クラさんがニヤリと笑った。「ちょっと使うだけだから平気さ」
「ホントウにだいじょうぶなの?」
 ボクがあわてて尋ねたけれど、クラさんは何も言わずに、さっさと倉庫から出て行った。
 ボクも気になったけれど、これ以上倉庫の中にはいたくないので、だまってクラさんの後を追った。
 ともかく、これで実験を始められるようだ。
 それにしても、先生がなかなか来ない。今日化学部の実験があることは知っているはずなのに、どうしたんだろう?
 心配になって、ホリさんが職員室へ先生を呼びに行ったけれども、職員室にはだれもいなかったそうで、すぐ帰ってきた。
 それでしかたなく、ボクたちだけで実験を始めることにしたんだ。もちろん、クラさんのノートに書いてある手順通りにだ。
 まず水の入ったビーカーに電線を巻き付けた金属の板を二枚垂らして、それぞれの電線を、単一の電池が六個並んだ装置の+と-の電極につなげた。これで準備完了だ。なんか、すごく簡単じゃないか。
 そう思って、ボクが装置のスィッチを入れようとすると、クラさんが止めた。
「おっと、水に硫酸を入れなくちゃ」
「あっ、そうか。ここで使うのか」
 硫酸なんて危険な薬品をどう使うのか不安だったけど、水に混ぜるだけなんだと、ちょっとホッとした。
「でも、どれくらい入れるんだい?」すかさず、ホリさんがたずねた。さすが、いつも冷静なホリさんだ。
「それが…よくはわからないけれど、ノートに希硫酸と書いてあるから、ほんの少しで良いと思うよ」
 そう言って、クラさんが硫酸をビーカーに少し垂らした。
「よし、これでだいじょうぶだ」
 クラさんのオーケーがでたので、さっそくボクがスィッチをいれた。
 さて、本当にこれで霧が起こるんだろうか?
 固唾を飲んで見守る三人だったけど……1分経っても、2分経っても、何も起こらない。
「あれ、おかしいな」クラさんが首をひねった。「これで霧が出るはずなんだけどなあ。もしかしたら、量を間違えたのかもしれないな」
 そう言って、クラさんが再び硫酸のビンを手に取った。
「ま、まさかまた入れるつもりかい?」ホリさんがあわてた。
 けれども、実験に夢中のクラさんの耳には入らない。ホリさんが止める間もなく、硫酸をドボドボとビーカーに流し込んだ。
 途端に水が泡立って、湯気が立ち上った。
「おっ、成功だ!」と、クラさんが小躍りした。
「でも、こりゃ霧じゃないよ!」ボクがのけぞった。
「そうだよ、危ないよ!」ホリさんも後ろに飛退いた。
 ビーカーを見ると、中の液体がグツグツとものすごい勢いで泡だって、あたりに水滴が飛び散っている。水滴がまわりの机や電池や電線の上に落ちて、次々と白い煙を立てているし、ビーカーからは湯煙がもうもうとたって、明らかに危険な状態だ。
 ボクらは飛び散る水滴から逃れるように、机の陰に隠れるのが精一杯だった。すぐ横を見ると、クラさんが硫酸の瓶をつかんだまましゃがんでいた。
「うわっ、それ!」ボクが思わず声を上げると、クラさんが苦笑いした。
「置く場所がなかったんで、持って来ちゃったよ」
 瓶のふたは閉まっていたけれど、ボクはこのときが一番怖かった。だって、硫酸がこんなに怖いものだなんて初めて知ったんだもの。
「どうするんだよ!?」机の陰からホリさんがきいた。
「どうするって、静かになるまで待つしかないかな」クラさんが平然と答えた。
「え~っ、いつまでかかるんだ?」
 ボクがあきれて聞き返した、その時だった。
 ドカーン!!
 突然ものすごい爆発音がして、机の上にあったモノが吹き飛ばされた。

  

 しばらくして、机の陰から恐る恐る顔を出してみると、奇跡的にビーカーはなんともなかった。けれども、装置はバラバラに吹き飛ばされていたし、クラさんのノートも、開いたページがすっかり黒こげになっていた。いったい何が起こったのだろうか?
 クラさんを見ると、肩を震わせながら俯いていた。
 そばに寄って顔を覗き込むと、てっきり実験の失敗を嘆いているのかと思ったら、ニヤニヤ笑っていた。
「あれっ、どうしたの?」
 ボクが尋ねると、意外な答えが返ってきた。
「せ、成功だ!」
「なにが成功だよ」ホリさんがため息をついた。
「ホントだよ。爆発したのに成功だなんて、おかしいよ」
 ボクも文句を言った。
 でも、クラさんと来たら、ぜんぜん気にしないというそぶりで、ひとり満足げにうなずいているんだ。
 それを見て、ボクとホリさんがあきれていると、突然理科室の扉が開いて、先生が現れた。
 今までどこにいたかは知らないけれど、どうやら、爆発の音を聞いて駆けつけたようだ。
 さすがの先生も、中の状態を見るなり、顔を真っ赤にして怒鳴った。
「君たち、何をしていたんです?」
「化学部の実験をしていたんです」クラさんが平然とこたえた。
 すると、先生がクラさんが持っていた薬瓶に気づいて叫んだ。
「そ、それは硫酸じゃないですか!」
 先生の顔が急に真っ青になった。生徒が勝手に倉庫から硫酸を持ち出して実験をしていたのだから、当たり前だ。それに倉庫には鍵がかかっていなかったし、そもそも監視役の先生が部活に遅れてきたのだから……。
 というわけで、こってり叱られるだろうと思ったら、全然そんなこともなかった。先生は、クラさんの手から硫酸の瓶を奪うように受け取ると、後片付けはやっておくからと言って、ボクらをそのまま家に帰したんだ。
 ボクたちはなんだか狐につままれたような気分だった。
 帰り道、ボクはクラさんにもう一度きいてみた。
「それにしても、なんで成功なんだい?」
「そうだよ、ボクもそれがわからないなあ」
 ホリさんも、ボクと一緒に首を傾げた。
 すると、クラさんが自慢げに胸を張って―
「あの爆発は、きっと、飛び散った硫酸の水滴を浴びた電線か電池の漏電で、起こったんだと思うよ。つまり、漏電の火花で水素が爆発したのさ」そう言うと、満面の笑みを浮かべたんだ。
「ということは、水を水素と酸素にちゃんと電気分解できたということじゃないか。だから成功なんだよ」
 クラさんはあの実験に満足していたようだけど、ボクとホリさんは疑問に思っていた。最初の実験で爆発まで起こすなんて、化学部はだいじょうぶだろうか?ボクらは不安で仕方がなかった。
 そして案の定、次の日に学校へ行ってみると、すでに化学部は廃部になっていた。そして、それからは理科室の倉庫の鍵は厳重にかけられるようになって、生徒が勝手に理科室に入ることも出来なくなったんだ。
 化学部がなくなって、ボクらがどうしたかというと、ボクは美術部に入ったし、ホリさんは図書部に入ったんだ。でもクラさんだけは、相変わらず化学部の復活を先生に願い出ていたけれど、やっぱり認められなくて、仕方ないので、自分ひとりで〈科学部〉を作ったみたいだ。
 で、たったひとりで何をしているのかと思ったら、よほど、あの実験の成功が嬉しかったらしくて、なんと水素の爆発する力で何かを動かす研究をしているのだそうだ。
 それで、ボクがきいたんだ。
「いったい何を動かそうっていうんだい?」
 すると、クラさんがニッコリ笑って言ったんだ。
「そうだね、まずは自動車かな?」
  【お台場少年うんちく集】

(9)濃硫酸で、どうやって霧を発生させるの?

 化学部を作った最初の実験で「濃硫酸」を使って霧を発生させる実験をして、実験が失敗したことや、それを先生に見つかって、その後理科室に出入り禁止になったことは紛れもない事実ですが、そもそもなんで濃硫酸を使ったのかが謎です。実験の内容はクラさんに任せきりでしたし、クラさんに問い合わせても記憶がないそうなので、結局真相はわかりませんでした。というわけで、実際に物語のような実験が行われたかどうかは不明です。
 推察するに、濃硫酸に銅片を入れ、加熱して二酸化硫黄(亜硫酸ガス)を発生させる実験や、濃硫酸と塩酸を混ぜたり食塩を加えて塩化水素を発生させる実験が有力です。もちろんこの時急激に加えたら加熱して危険ですし、誤って過マンガン酸カリウムなどを加えたら爆発を起こします。
 いずれにせよ濃硫酸を使った実験は小学生には大変危険ですので、良い子は絶対にマネしないように!