黎明期

一、土壌

 果たして「ポポロクロイス物語」がどうしてこの世に生まれたのか?それを説明するのは極めて難しい。何故ならそこには数多くの要因が複雑に絡みあっているからだ。まぁそんなワケで、「ポポロクロイス物語」の発端を顧みるならば、それはまさに「偶然の産物」のように思えるし、数奇な運命に導かれた「必然」のようにも思える。ともあれ、ポポロクロイスの歴史を紐解くには、まず日本の漫画の歴史から説明していかなければならない。

 昔々、まだ漫画が「貸本」だった頃…。そう、昔は漫画といえば単行本だったが、さすがに子供には高価なので貸本が主流だった時代がある。私も近所の本屋から毎日沢山の本を借りて見ていた。もっとも、当時の興味の中心はもっぱら映画にあったので、映画を観ている時間の方が多かったかも知れない。まだ街頭テレビの時代だから、人々の娯楽の中心は映画にあり、町には映画館があふれていた。なにしろ、我が家から半径500メートル以内に5つも映画館があり、それぞれが全く別の映画を公開していたのだから凄い。中でも一番近い映画館なんて、家から歩いて50歩ぐらいだから、幼稚園児のくせに、もう1日に何度も映画館に足を運んだものだ。

 思わず映画の話に脱線しそうだが、これも大変重要な要素なので、もう少しだけ映画の話を続ける。恐らくこの頃観た数々の映画が、私の思考回路に大きな影響を与えていることは間違いのない事実なのだ。幸いなことに親も相当映画が好きだったらしく、休日は必ず浅草や新宿、有楽町まで映画を観に連れて行ってくれた。おかげで近所の映画館では公開しない様なロードショー作品も沢山観ることが出来た。特に「黒い蠍」「宇宙水爆戦」「キングコング」「ゴジラ」「禁断の惑星」「宇宙戦争」といったSF映画の古典的名作に出会ったことがその後の人生を決定づけたと言っても過言ではない。(もちろん、それだけではないけれども…)

二、遭遇

 さて、話を漫画に戻してみよう。貸本を沢山借りていたと言ったが、実は漫画は僅かだった。主に借りていたのは山川惣治の「少年王者」や「少年ケニア」といった絵物語だった。要するに本の挿絵が見たかったワケで、その絵を見て自分で想像を膨らませるのが好きだったのだ。一方、貸本時代の漫画はどうも絵が気に入らなかったこともあり、あまり好きではなかった。特に怖い漫画が多かったことも、私を漫画嫌いにさせた一因だったのだろう。

 そんな中、一冊の本に出会ったことにより、状況は一変してしまった。それは手塚治虫先生の「フイルムは生きている」だ。それまで手塚治虫の存在を知らなかったというのも呆れた話だが、とにかくこの本を読んで驚いた。まるで映画のようなコマ割と描写。流れるようなストーリーの起伏と感動的なラスト。この世にこんな面白い物があったのか!?もう感動の余り、本がボロボロになるまで何度も何度も読み返し、穴があくほど見直した程だ。そして、同じような感動を人々に与えられるようになりたいという思いから、漫画家になることを決意したのだった。つまり、まずこの本との出会いがなければ今の私はいないし、「ポポロクロイス物語」だって生まれなかったのである。

三、変質

 さてさて、いざ漫画家を目指してみたものの、それが実現するまでにはまだまだ多くの年月を待たねばならなかった。それには二つの大きな事情がある。一つは漫画媒体の変質であり、一つは「オイルショック」である。

 いわゆる単行本時代を経て月刊漫画雑誌の時代が到来し、ストーリー漫画は一つの黄金期を迎える。今まで単行本で人気を博していた作家が一つの雑誌でしのぎを削る様になり、「鉄腕アトム」や「鉄人28号」「サスケ」等沢山の名作が生まれた。月刊漫画雑誌の場合各作品の掲載ページの他に付録の小冊子が付くため、かなりのページ数を作品に割くことが出来た。それにより、毎月読み切り連載も可能であった。つまり、「起承転結」のあるきっちりした物語を月刊というペースで描くことが出来る環境にあったワケだ。

 ところがその後、週刊漫画雑誌が生まれたことに従い、漫画制作の状況と漫画自体の性格が一変してしまうのである。当時はまだスタジオ制作が珍しい、徒弟制が生きる漫画「家」の時代であったから、週刊というペースはかなりきつい制作環境を強いる結果となった。当然描けるページ数も限られ、ギャグ漫画は別として、毎週完結させるストーリー漫画は姿を消し、持続性のある連続ストーリー漫画が主流となって行った。更に毎週集計される読者による人気投票はこの流れに拍車を掛け、それは漫画自体をも変貌させることになった。

 つまり、毎週読者の人気を獲るにはストーリー性など無意味で、必要なのは「キャラ」や「画面」のインパクトであり、次週への絶妙な「引き」以外の何物でもないのである。もはやストーリー作りの基本である「起承転結」など何の意味もなさない。何しろ読者は2週間前の伏線など覚えていてくれるはずもないのだし、漫画におけるストーリー軽視の傾向はどんどん加速して行かざるを得なかったのだ。

 また、週刊連載漫画で人気を獲り、それを持続して行くためには、読者層に身近な題材を取り扱うのが最も効果的である。それ故、現実離れしたSFやファンタジーはなりを潜め、学園物やスポーツ根性物が主要なジャンルを占めるようになった。しかも、一度掴んだ読者を離さないために、読者対象は既存の読者と共に次第に高年齢化して行った。おかげで週刊少年漫画雑誌の主要な読者対象は「少年」ではなく、中学高校生から大学生の「青年」に移り、本来の読者対象であるべき小学生は見放されてしまうという、漫画界の将来にとって非常に由々しき事態が生じてしまった。(こういった状況の中で、ひたすら少年漫画に拘り、学年誌に活路を見いだしたのが藤子不二雄氏であった…)そして同時にこの事は、私が求めていた、ストーリー性のある子供のためのファンタジー漫画を描く場が、一般少年漫画雑誌で閉ざされたことを意味した。

四、挫折

 更にこれと前後して、もっと深刻な事態が出版界全体を襲った。中東産油国が勝手に石油価格を高騰させた為に、その影響がもろに日本を襲ったのである。所謂「オイルショック」で、これは御丁寧に2度も起きた。石油の値段が上がると、紙の値段も高騰し、雑誌のページは極端に減少した。当時主要な少年漫画雑誌はベテランの強力な人気作家達によって占められていたから、その上ページ数まで減ったら、新人作家の出る幕など殆ど無くなってしまったワケだ。(もちろんこんな時でも、大島やすいち氏とか、あだち充氏といった飛び抜けた逸材はちゃんとデビューを果たしているし、まだ発展途上の少女漫画雑誌では、この時期むしろ沢山の個性的な新人少女漫画家を輩出している。)

 更に更にそれに追い打ちをかけるかのように、新人漫画家の登竜門であり、指針でもあった漫画専門誌「COM」の廃刊と、出版元の虫プロ商事の倒産は、漫画青年達に大きな衝撃と絶望感を与えた。実際当時の真面目な漫画青年達は皆「漫画は死んだ!」と本気で思ったものだ。こうして、多くの才能ある漫画家志望者達が挫折感を抱いて漫画業界から去って行ったのだった。もっとも、その後漫画業界が盛り返してから、戻ってきた者も少なからずいて、私もその中の一人なのだが…。

 とにかく以上の様な理由により、漫画を描く場を失った私は、家庭の事情もあり、一時漫画家を断念して北の地に移転することになった。だが皮肉なことに、遙か北の地で知らず知らずの内に漫画家デビューしてしまうのだ。そして、それが「ポポロクロイス物語」の誕生に繋がるのだから、運命とは全く判らない。    (続く)